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連載【揺れる地域・第2部】〜陸自石垣駐屯地開設1年〜《21》

現在叫ばれている「台湾有事」について、自身のルーツや経験をもとに語る島田長政さん=6月10日、島田さん宅

現在叫ばれている「台湾有事」について、自身のルーツや経験をもとに語る島田長政さん=6月10日、島田さん宅

「何が台湾有事だ」
長い目で見ると…
島田長政さん ㊤

 「金門島でドンパチがあった頃と比べたら、台湾は今はものすごく平穏。確かに緊張感はあるけど、経済で結びついているから絶対に(戦争は)しないよ。何が台湾有事だ」。

 島田長政さん(79)は、戦時中の1944年(戸籍上は45年)、疎開先の西表島で生まれた。父が台湾の台中から石垣島に移り住んだ台湾系移民2世だ。

 台湾に兄弟や従兄弟、親戚が多くいるが、「電話して聞いても、台湾では『何だよそれ』という感じ。なにも変わりはない」と話す。

 「金門島のドンパチ」とは、中国が金門島に砲撃した1954年9月3日の「第一次台湾海峡危機」や58年8月23日の「第二次台湾海峡危機」のこと。小中学生時代、島田さんの家庭では、(砲弾が飛び交う)金門島の状況が日常的に話題に上ったという。

 現在住んでいる嵩田(カード)に移り住んだのは戦後のこと。島田さんの父・廖見福さんが西表島から帰ってきた際、もともと住んでいた名蔵から土地を追われたため、他の台湾人を説得して一緒に移り住んだ。

 台湾籍の人たちは戦後、日本人ではなくなり、参政権も失うことになる。

 戦後10年近くは沖縄に住む台湾人は「琉球人」とみなされていたが、1954年、米国民政府布が「第2次出入管理令」を制定すると、戦前は日本人だった台湾籍の人たちが「非琉球人」(外国人)として切り離され、参政権(選挙権)を失った。

 嵩田には当時、台湾人しか住んでいなかったため、参政権のない彼らのところには政治家は来ず、「政治がなかった」と回顧。「政治的に重要視されていなかったから、水も電気もなかった。道も全部、自分たちで造った」。

 その後、石垣島の多くの台湾人は日本国籍を取得するが、そうした過去があるなかで2018年1月、市長選とセットで行われた市議補選に、駐屯地周辺地区の思いを代弁しようと嵩田地区から花谷史郎さん(当時35)が立候補を決意したことには、特別な思いがあったという。

 「政治の世界は敵ができるから苦労ばかりだと思う。でも、政治がなかった地域に(花谷さんが立候補することで)政治を持ち込んでくれたことは、気持ち的にはすごくうれしかった」と話す。

 島田さんは後援会長として花谷さんを支援した。

 「(話が持ち上がったときから)反旗を翻すわけではなく、公正な意見を聞いてほしいということだった。でも、市長は最初から受け入れありきだったと思う」と振り返る。

 駐屯地は於茂登岳ふもとに開設された。「農村を二つに割るような場所。農地にすべき土地だと思っていた。長い目で見るとよくないのでは」と考えている。

(三ツ矢真惟子)

 

 ※執筆には、土井智義氏の論文「米軍統治期の『琉球列島』における『外国人』(『非琉球人』)管理体制の一側面」を参考にした。

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