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太平洋戦争中の1944年8月22日、長崎に…

 太平洋戦争中の1944年8月22日、長崎に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童ら1400人以上が犠牲となった▼翌45年7月3日、石垣島から台湾に向かっていた疎開船2隻が米軍機の機銃掃射を受けて1隻が沈没、もう1隻が航行不能となって魚釣島に漂着する尖閣列島戦時遭難者事件があった。ことしの慰霊祭で尖閣列島戦時遭難者遺族会長の宮良芳明さんは「安全な場所へ行くはずだった行動が自ら危険へ飛び込む悲惨な結果を招いた」と述べた▼八重山では軍命でマラリア有病地に強制的に移動させられて3600人余りが犠牲になるという「八重山戦争マラリア」の史実もある▼当時の疎開は、今で言うところの、有事を想定した住民避難に当たる。避難開始は、武力攻撃が予測される事態と判断された時点とされる。石垣島では全住民を6日間かけて九州などに避難させるという▼それが「自ら危険へ飛び込む」ことにならないか。島も財産もすべて捨てることにならないか。疑念や不安は尽きない▼これを、太平洋戦争末期の島々の疎開に詳しい明治学院大学教授・石原俊さんは、政府が当時とった軍民分離の「疎開政策」に着手し始めたとみる(2月29日付本紙9面)。民がいなくなった島に、軍が残ることになる。(比嘉盛友)

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