「162年前の宮良橋」絵図発見
- 2024年08月13日
- 芸能・文化
宮良川で隔てられている宮良と大浜を結ぶ宮良橋の1862年当時のものとみられる絵図「宮良矼絵図」(縦54㌢、横77・2㌢)がこのほどみつかった。1771年の明和大津波で崩壊した後、石垣島に流刑となっていた士族の仲尾次政隆(1810―71年)が私財を投じて再建したもの。石積みの橋脚に板でつなぐ全長約114㍍の架橋。11カ所に水門も設けられている。162年前の宮良橋の姿がよみがえる。
公立大学法人名桜大学が企画する「琉球文学大系」編集刊行事業で波照間永吉委員長(同大学院特任教授)がことし4月、仲尾次の流刑生活を記した「配流日記」を編集する過程で現物を所有する子孫の仲尾次政剛さん(97)宅=東京都杉並区=を訪れた際、絵図を発見した。
波照間委員長によると、仲尾次は「那覇加増総横目」などの役職を務める有力者で、海運業も営んでいた経済人でもあった。ところが、当時禁制となっていた一向宗(浄土真宗)を信仰・布教したとして1855~65年の間、石垣島で流刑生活を送った。比較的自由に過ごせたという。
そのころの宮良橋は1771年の大津波で崩壊してなくなっていた。仲尾次は、人々が不便を強いられているのを知り、1860年に橋を架けようと決意。全長約114㍍、幅5・4㍍、水門7カ所を造った。翌年61年に台風で破損したため再建、その際に水門を4カ所増設して11カ所にした。いずれも自費だった。
こうした功績を認め、首里王府の出先機関である八重山蔵元の役人らが1862年5月、赦免を嘆願する「御手形」を首里王府に提出、その際に「矼之絵図」を添えた。その一枚を仲尾次が所有して子孫に代々引き継がれていたとみられ、今回の発見につながった。絵は蔵元絵師が描いたとみられる。
波照間委員長は「近世琉球王国時代の橋がどうなったか分かっておらず、絵図によって当時の橋の姿を推測でき、重要な手がかりとなる。蔵元絵師の仕事もよく分かる絵図となっている」と意義を強調している。
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