戦争マラリア 忘れない 波照間島 戦没者慰霊碑を建立
- 2024年04月16日
- 地域・教育
学童慰霊碑に隣接して建立された波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑など(右)=建立期成会提供
波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑と関連碑の建立を報告する期成会の役員=14日午後、八重山平和祈念館
期成会、6月に記念式
【波照間】学童慰霊碑の隣に波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑とソテツ感謝之碑、戦争家畜殺生之碑がこのほど建立された。島には戦争マラリアで命を落とした住民らを慰霊する碑がなかったため、忘勿石之碑修復・波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑建立期成会(内原勲会長)が忘勿石之碑(西表島南風見田海岸)の修復を機に準備を進め、3月31日に完了した。碑文は「私達は、この史実を決して忘れてはならない」と記す。同会は6月15日に記念式と慰霊祭を行う。
碑文によると、波照間島では太平洋戦争末期の1945年3月、山下軍曹の「島の住民は1人残らず西表島に疎開せよ」との命令で住民1590人は西表島南風見田海岸で共同生活をするが、学童66人、乳幼児を含む住民20人余りがマラリアに罹患して犠牲に。同年8月には識名信升校長の八重山守備隊への直訴で全島民が帰島したが、そのあとも「マラリア地獄」が続き、552人が亡くなった。
ソテツ感謝之碑は、帰島後の食糧難で多くの人命を支えたソテツに感謝するもの。「敗戦4年後、島の復興委員会によりソテツ発祥の地と伝わる大泊海岸にてソテツ感謝祭が催された」と説明している。
家畜殺生之碑は、「家畜は一匹たりとも残すな、残したら米軍の食糧になるから全部殺させよ」との軍命で住民は豚やヤギ、ニワトリを処分・加工して疎開に備えたが、疎開が始まると軍が残された家畜を兵糧とするため、と畜して薫製にしたと紹介。
「屠殺場となったプルマヤマの木立は家畜の血を浴び、びっしりたかった銀バエで枝がたわみ、血だまりで立ち枯れる樹木もあった」「農耕に必要な牛馬や食料となる豚、ヤギ、鶏、農作物等がなく帰島後の食糧不足等は、マラリア禍を一層深刻にした」と伝えている。
波照間島戦争マラリアを巡っては1984年には島内に学童慰霊碑、92年に南風見田海岸に忘勿石之碑がそれぞれ建立された。忘勿石之碑は台風などで刻銘版が破損していたが、同期成会が募金活動を展開し、2022年8月に修復。今回の慰霊碑3基で予定していた建立事業をすべて完了した。
3基の慰霊碑は波照間港から学校に通じる道路「しぃびらはなみち」沿いの小高い丘にある。縦4㍍、横5㍍、高さ約1㍍の台座に鎮座し、学童慰霊碑とともに西表島を向いている。この場所を期成会は「忘勿石を望む丘」と名付けた。
内原会長ら役員が14日、八重山平和祈念館で会見し、「平和を願う多くの方から多大な寄付をいただき感謝申し上げたい。波照間から世界の恒久平和を発信していきたい」と述べた。
集まった寄付は1293件1241万円。修復に287万円、記念碑建立に442万円を充てた。記念誌発行なども予定する。
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